「独り言」のアーカイブ

 9月の第1週は,飛ぶように過ぎた。

 私の業務も立て込んでいたし,彼もほとんど執務室にはいられないくらい,会議やらラボでの研究やらに追い立てられていた。

 それでも執務室や廊下で行き会うわずかな時間,お互いほんの少し緩めた顔で,小さな挨拶を交わすのが幸福だった。


 夜のメールは,彼から来ることが多くなった。

 彼の退勤時間は私よりもかなり遅い。日が,急速に短くなった感がある。昼間の名残を残す西の空を見ながら帰り,夫と夕食をとり,くつろいでいる頃にたいてい携帯が震える。

 液晶をつついていても,夫は何も言わない。メールなの,とも,何してるの,とも訊かない。夫自身,ツイッターやフェイスブックであれこれ付き合いがあるらしく,二人でいてもよく手の中の機器に心を奪われている。自分がやっていることだから,妻の行為も容認している,という印象だ。
 少し前までは,夫婦でいるリビングのソファで携帯つついてるってどうなんだ,と,少しだけ思っていた。
 でも今は,違う。
 この「距離」をいいことに,私は,夫のそばで,何食わぬ顔で彼に返信を打っている。

 もう,罪悪感が相当麻痺していると分かっている。分かっていても,どうすることもできない。


『今から電車に乗ります。遅くなっちゃった。相変わらず要領が悪いです,俺』

『今週,キツキツだもん。とりあえず無理だけはしないでね』

『ありがと,るうささん。ちょっと元気でた』


 毎朝5時前に起きて,朝食も摂らずに出勤する夫は,10時頃にはもう2階の寝室へ引き上げてしまう。一人のリビングで,私は,また自分の手の甲に唇を寄せる。

 あの夜の小さな,幼い,手の甲へのキス。あのキスがこんなにも私を乱す。

 もしもあの唇が,手の甲ではないところに触れたら。そう考えただけで,息が浅くなる。


 木曜,退勤時間も近くなったころ。
 明日の会議のために,図書資料室から資料をコピーしておかなくてはならなかったことに気が付いた。
 珍しくラボから執務室に降りてきていた彼の背中が,私の席から見える。今日はまだ,一言も話をしていない。話しかけようかどうか迷って――だって,彼は明日から学会の出張でまた週末を挟んで3日会えなくなる。でも,用もないのに,別の同僚もたくさんいる中でわざわざ話しかけに行くのも不自然だ。

 諦めて,席を立った。
 図書資料室は本館の2階にある。
 まだ鍵は開いていて,ほっとした。

 ずらりと並ぶ書架と書架の間に立って,手元の目録と資料番号を照らし合わせる。すると,目当ての資料がかなり上の方の段に納まっていることが分かった。

「あーあ…」

 手が届くわけがない。部屋の隅のステップを運んできて乗らないと。

 その時だった。がちゃっとドアの開く音がした。そして,節電のためもともと蛍光灯の半分しか点灯されていない部屋だけど,点いていた残り半分の照明が,ふっと落ちた。

 ああ,もう閉室時間か。総務部の係の人が施錠に来たのかな。

「……めるさん,居るよね」

 え。
 違う,総務部の人じゃない。この声は。

 入り組んだ書架の向こうに,彼の立ち姿があった。

「…カイヅカさん」
「誰もいないから。イブキ君,でいいよ」

 そう言って,彼は私のそばに歩いてきた。なぜか,心臓が跳ねた。大きな息の塊が,胸元から勢いよく喉元にまでせりあがってきた。

「資料,見つかったんですか」
「…あ,あったんだけど,上の方で…届かないなって…」

 柔らかく笑った彼は,どの資料かを私に訊くと,手を伸ばしてそのファイルをなんなく取ってくれた。バスケット部のキャプテンだった,そう言ったあの日の笑顔を思い出した。

「これでいい?」

 身体と身体の距離,わずか30センチ。

「うん…。ありが――」

 受け取ろうと手を出した瞬間,その手首を強くひかれた。あっと思う間もなかった。彼の手から資料が床に落ちて,今までファイルを持っていたその手は私の身体を真正面からきつく抱きしめていた。

 目の前には彼のワイシャツの第2ボタンがあった。ネクタイをしていない,第1ボタンを開けた隙間から見える鎖骨の付け根。
 私の上腕と,腰とを,きつく締め上げるような腕の力。男の人の,力。

 彼の匂いがした。

 眩暈がする。


 息が,止まる。

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コメント

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 愛読しています。
最初から拝見していて、カイヅカさんとめるさんの先行きにドキドキしている1人です、、

めるさんの、表現の仕方が本当に拝見してて、手に取るように伝わってきて、読み進めていくたびにドキドキしてしまいます。。

お仕事でお互いの取り組むものに理解し合える、ってとても安心に繋がりますよね。

それを無邪気に話してくれると、愛おしさが増す…
分かるような気がします。
ころん|投稿日時:2013/09/16 22:01|更新日時:2013/09/16 22:01
 コメントどうもありがとうございます!
初めまして,ころんさん。
コメントくださって,本当に嬉しいです。
(こんな私小説風ブログに「愛読」なんて言っていただけると,舞い上がっちゃいますね!)

また,文章を褒めていただいたことも光栄です。
現実に起きていることを誇張してはいないのですが,どう書いたら私の心の揺れや震えが読んで下さる方に伝わるかな…と,そこだけは結構気を遣って書いています。

カイヅカさんと私の関係には,いつも真ん中に「仕事」があります。
同僚じゃなかったら,「仕事」に対する思いや葛藤や喜びを共有できなかったら,きっと恋に落ちてはいなかったんだと思います。
多分それはカイヅカさんも同じで,私たちにとって切磋琢磨し合う同僚であることと,恋している相手であることは,切り離せないものなんだと感じるのです。

職場なのに婚外恋愛,というよりも,職場だったからこそ婚外恋愛,という方が正しいかもしれません。

抱きしめられたその瞬間,本当に頭が真っ白でした。
これから私たちがどういう道を進むのか,現実の進行からはやや遅れで綴っていこうと思います。
どうか今後とも,やさしく見守ってやってくださいませ。よろしくお願いします。
めるるうさ|投稿日時:2013/09/17 19:31|更新日時:2013/09/17 19:31

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