「独り言」のアーカイブ

『今日で3日連続ネクタイは合格です。今後も努力しましょう(笑)』
『俺チェックができるってことは,めるさんが元気ってことなので安心です。また明日』
『大丈夫,元気です。じゃ,また明日』

 夜にショートメールのやり取りをするのが日課になった。

 彼から来ることはまずない。11時前くらいに私から何か打って,彼から返信が来て,余裕があればそれに私がレスして,終了。限られた字数の中で伝え合う小さな気持ち。メル友から恋人になるってケースを正直信じていなかったけれど,ああ,これか,って毎晩実感している。

 翌朝。
 いつものように,始業時の業務連絡会直前に執務室に入ってきた彼の足元を見て,額を打ちたくなった。

 ネクタイは,OK。でも,なんでスラックスの裾が片っぽ,靴下のゴムに挟まっちゃってるかな!

 どうやら実験室や測定室では靴下も脱いで,裸足にサンダルで仕事をしているらしい。
 流石に言おうか言うまいか迷った。彼としてはどうなんだろう,毎日,小姑のように服装をチェックしてくる「同僚」について。「言ってもらった方がいい」と言いつつも,実はうざったいと思ってるんじゃないだろうか。好意を寄せ合っているなんてことはもしかしたらこっちの勝手な憶測と推測で,「なんだこいつ」と思われていないかと,今更ながらに不安が募る。
 でも,言わずにはいられない。だって,好きなんだから。好きなひとには,いつでも格好良くしてて欲しいから。好きじゃなかったら,襟が折れていようがスラックスの裾が靴下に挟まっていようが,そんなのどうでもいいから放っておくよ。好きだから,放っておけない。

 連絡会が終わって,じっと彼の背中を注視した。私の席からは,彼の背中しか見えない。

――早くこっち向け,こっち向けカイヅカ!

 根性の念が通じたのか,不意に振り返った彼の視線を強引に捉えた。目の高さに挙げた右手の指先で「こっち来て」を伝える。
 きょとんとしたままの彼が私の席のそばに来た。

「そのまましゃがんで」
「え?」
「足元,見るべし」

 自分の足元を見下ろして,「お」と聞こえる息の声を吐き出して,大慌てでスラックスの裾を直す彼。
 あー。
 嬉しいのやら,困りものなのやら。


 ほっとしたのも束の間,今度は10時ごろ,お茶コーナーのポットの前に紅茶のティーバッグを突っ込んだままのカップが放置してあるのに行き当たってしまった。
 カップの柄は,青いネコの図柄。この図柄のカップは部の備品だ。多くの部員が「マイカップ」を持参して使う中,部の共用カップでお茶を飲む人は少ない。そして,彼がその少ない「共用カップ派」であることを,私は知っていた。

―――あー。これ,カイヅカさんだ。絶対。

 妙な確信があった。
 午前中いっぱい,その紅茶入りカップはポットの前に放置してあった。昼に至り,私はカップの中のすごい色になった紅茶とティーバッグを捨て,カップを洗って干した。

 果たして,勤務時間後。

 私はチョコレートの包みを持って実験室へ行った。
 予想通り室内にいた彼に,「あーいたいた」とごく普通の調子で言葉を流しながら,「はいこれ」とチョコを手渡した。「あ,ありがと。いつもごめんね」と,やわらかい返事が返ってくる。

 少しだけ世間話をした後,意地悪半分で訊いてみた。

「ね,つかぬ事を訊くんだけど」
「なに?」
「今日,午前中。ネコちゃんカップで紅茶淹れてない?」

 最初,きょとんとしていた彼は,はっと思い当たった顔になってまじまじと私を見つめた。

「あー……淹れた。……もしかして」
「放置」
「あーーーー!」
「ポットの前にずーっとカップ置いてあって。……アレやっぱカイヅカさんでしょ」
「多分,うん,うわ,自分だあ。あー,そうかも。ああー,忘れてた」
「はい,中味捨てて,洗っときました,ワタクシ」
「わー! ごめんなさい,俺,それ,うわー。かあー」

 身を捩って謝る彼が,可笑しいやら,可愛いやら,愛おしいやら。

 ああ,参ったなぁ。こんな格好悪い姿にさえ,ほんのり愛しさを感じている。こんな時間を共有できることに幸福を感じている。

 ひとしきり笑って,それから,ふつっと言葉がとぎれた。ちょっとだけ見つめ合った。

「めるさん,今日はもう,帰るの?」
「うん。カイヅカさんはまだ仕事?」
「そうだね,もう少しやってから帰ります」

 そして,彼は,少しだけ首を左に傾けて,言った。

「………じゃあ,また明日,ね」

 目を糸のように細くして笑う。
 かすかな首の角度。
 
 きゅっと胸の奥が狭くなった気がした。

 また明日。

 幾度となくメールで見てきたこの単語が,彼の唇から音声となって流れ出て,耳を打つのは初めてだった。

 またあした,またあした。じゃあ,またあした。

「うん。じゃ,…また,明日」

 ああ,そう。

 明日もまた会える。今はその保障がある。

 でも,それはいまだけ,ここにいるあいだだけ。

 人事の偶然で出会った私たちは,今度は,きっと,人事の采配で二度と同じ場所には立てなくなる。


 分かっている。

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